社長プロフィール

鈴木 美和子(すずき みわこ)のプロフィール

●1955年 東京都出身

毎日学校の終わりを告げるドヴォルザークの「新世界より」が流れるまで 遊んでいた小学生。小6のとき家庭の都合で、横浜へ転校。クラスでは身長156センチで、「デカ」と呼ばれた。「デカ」なんて、女の子の呼び名ではないが、喜んで呼ばれてました(笑)。将来はファッションモデルかスチュワーデスを夢みる少女でした。

高1のとき、テレビドラマで見ていた女医に憧れ、女医を夢みる。家事を手伝っている時に、包丁で自分の指の皮を削いでしまい、血が吹き出るのを見て、気分が悪くなり、医者への夢はすぐに吹っ飛ぶ。 その後、好きなデザインの道に進みたいと思い、美術の先生に相談したところ、月4万円のデッサンのレッスンを受ける必要があり、親にこれ以上負担をかけられず諦める。父からは「浪人は許さん!」といわれ、願書をもらいに行った玉川大学で劇的な出会いが…。道路の側溝に落ちたタバコの吸殻を拾い集める白髪の老人こそ、教育者で有名な小原國芳総長であったことを後で知る。 入試に総長面接がある大学は珍しく、総長から「将来の夢は?」と質問され、夢を両手で数えきれないほど語って総長に大笑いされたのは、今でも記憶に残る。全ては縁の積み重ね。そんなことを初めて感じる出来事だった。今振り返ると、デッサンのレッスンよりお金が掛かったに違いない。両親に感謝!

●1978年 3月 玉川大学文学部外国語学科(英語学専攻)卒業

入学してからの私はまじめ一筋。出席率は最高ではなかったか?
片道1時間半~2時間の通学時間には苦労した。
卒論のテーマは、「英国の競馬事情について~その言語学背景と文化的背景~」。語学とは全く異なる研究で同級生からは呆れられた。当時、犯罪事件の動機は、競馬(競輪)の金欲しさというのが一般的。競馬新聞片手に赤ペンを耳にした男性が集まる競馬場の殺気立ち、殺伐とした風景が当たり前でした。一方、競馬の本場・イギリスのダービーでは、女王陛下はじめ紳士淑女が優雅に帽子をかぶってドレスアップしている光景がテレビに映し出され、どうしてこんなに異なるのだろうか?という疑問から、研究を始める。

たまたま知り合いを頼ってアルバイトに行った先が「国際ピーアール株式会社」 まだワープロがない時代で、私の仕事は、提出用の書類の清書であった。アルバイト先が日本中央競馬会のPRをしていることを知り、担当者の紹介でアルバイトの日以外は、日本中央競馬会の資料室で文献をみせてもらうことに。
学生時代の私はまさか後々、仕事に繋がるとは知る由もなかったのです

●1978年 4月 国際ピーアール株式会社入社(現・ウェーバー・シャンド・ウィック・ワールドワイド(株))

営業の女子採用はなく、入社して5年間はジュニア・セクレタリーとして働く。結婚後、念願叶って営業職へ。PRの現場で働くチャンスを得る。
学生時代のアルバイトに始まった秘書業務を通じて、
PRという世界を垣間見てきた私はまるで長年の片思いが叶った気分!

――PRに恋して
晴れて営業職となった私は、外資系企業、日本企業の国内向けの広報活動を幅広く担当することになります。
500名クラスの社長就任披露、周年パーティ、新製品発表、各種セミナーなどのコーディネートをはじめ、オピニオンリーダー対策などのほか、海外から来日する要人の婦人プログラムのプロデュース、国際会議などのプレスセンター運営業務、各種アンケート調査など与えられた仕事に果敢に取り組みました。
オフィス・メイの礎は、12年間の国際ピーアールで学んだからこそできたこと。いろいろとご指導いただいた上司、一緒に働いた同僚には、本当に感謝している。東京で培った人との繋がりは、今でも私の糧となっていることはまちがいない。

きっかけは、夫の転勤!――卒論がきっかけとなり、競馬会のPRを担当する。初めての大阪出張で、大阪に一目ぼれ!喜々として淀の競馬場で働く。
“大阪で働きたい”という想いが募る矢先、夫が大阪へ転勤に!夫より、私の方が有頂天!? いざ、商都大阪へ―。

●1990年 9月 会社を辞め、喜び勇んで夢の大阪へ
PRの仕事を探したものの、バブル崩壊直後の大阪では、仕事も見つからず。
それなら!と、「商いの街で、マーケティングについて学んでみよう」と思い立ち、大阪の経営コンサルタント会社・船井幸雄会長(当時、代表取締役社長)の船井総合研究所のビジネススクールに通う。

●1991年 1月 JAFEサービス株式会社(現㈱ポピンズコーポレーション)、芦屋支部企画・広報マネージャーに
国際ピーアールに勤務時から、日本女性エグゼクティブ協会のメンバーとして親交があった、ベンチャー企業であり、女性起業家として有名なポピンズサービスの中村紀子代表に見出される。
関西の有名企業を精力的に営業する中村代表を補佐。
メディアへの取材対応をする傍ら、企業内託児ルームの企画にも参画。万博公園駅前の大阪ガスショールーム「生活誕生館DILIPA」内のショールームを兼ねたベビールームオープン企画に携わる。中村代表の感性ある仕事ぶりに感銘を受ける。女性の繊細さ、かつ大胆という営業戦略は、学ぶことが多かった。

●1992年 3月  大阪で仕事を探し始める
30半ばの女性を雇う企業は皆無。就職ではなく、起業に向けての準備を始動。当初、堺市新金岡の自宅にて創業しようと考えたが、PR業界の先輩から「本気なら、大阪市内に事務所を構えよ」とアドバイスを受ける。

●1992年 6月 大阪・空堀商店街の近くのワンルームマンションにて創業
PRコンサルタント会社、有限会社オフィス・メイを設立。
1番目のお客様は、伴ピーアール株式会社
大阪で仕事をするなら地元の企業に下駄を預けるのが一番!と、紹介されたのが、当時、釣事業や大阪観光PRで注目を浴びていた
伴ピーアール株式会社。

「大阪は人を笑わせて、なんぼの世界。PRも同じこと。」という伴一郎社長の教えに刺激を受ける。大阪に来てはじめて知った日本三大祭のひとつ「天神祭」。
その年復活した菅原道真公所縁の「天神花」を大宰府に流された道真公と同じ経路を辿って、大宰府天満宮に奉納する「天神花」奉納船の取材誘致が初仕事。大阪は道頓堀のハリボテ看板が有名。その看板の代表格が「なにわ御三家キャラクター」として誕生。そのPRに関わることができたことは、大阪大好きの私にとっての誇りである。

地元大阪の企業をはじめ、京都、神戸、奈良、和歌山の企業の製品PRから、商業施設やフードテーマパーク、ホテル、オフィスビルなど、オープンPRから集客イベントなどPRなどに携わる。

対象企業は、食品会社、家電製品、家庭用品、製薬会社、宗教法人、学校法人、医学会、行政、観光協会など多方面にわたる。内容もニュースリリースの配信から記者発表会からメディアワークショップ、プレゼントパブリシティ、意識調査からモニター調査まで。
食品の不当表示等の危機管理から、製品リコールなどのコンサルティングなどにも携わっている。

 

伝教大師最澄1200年魅力交流委員会
推進事務局 広報担当(2020年4月1日現在)



趣味…旅行/温泉めぐり、読書。大阪検定2級

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